■妙信寺のご案内
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宗 祖
久遠のお釈迦さまの信仰を受け継いだ、日蓮大聖人(1222〜1282)です。
 
経 典
妙法蓮華経(法華経)をよりどころの経典としています。
 
本 尊
本門八品上行所伝の「南無妙法蓮華経」です。日蓮大聖人自ら「日蓮当信の大事」と述べられた「観心本尊鈔」に「其の本尊の体たらく、本師の娑婆の上に宝塔、空に居し、塔中妙法蓮華経、左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士には上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は、萬民の大地に処して雲閣・月卿を見るが如し。十方の諸仏は大地の上に処したまう、迹仏・迹土を表するが故なり。是の如き本尊は在世五十余年に之れ無し、八年之間にも但八品に限る。」とおおせられ示されたものが、十界の大曼荼羅ご本尊です。
 
宗 派 
法華宗(本門流) 歴史としては鎌倉時代の建長5年4月28日に宗祖日蓮大聖人が開かれた宗派で、法華宗は宗祖日蓮大聖人ご自身が「法華宗沙門日蓮」と名乗られた所からの宗名です。本山は沼津・光長寺 千葉・鷲山寺 京都・本能寺 尼崎・本興寺の四本山です。妙信寺は京都本能寺を本山としています。
 
開 山
妙信院日浄尼上人(1902〜1998)。妙信院日浄尼上人は、若き頃わが子の重き病気平癒祈願の為、法華経の信仰に入信。しかし病気平癒の願い叶わず、わが子を亡う事になる。後息子の菩提を弔う為、出家得度仏門の道に入る。横浜市鶴見区下末吉の自宅を布教所として長年に亘り多くの人を救う。平成17年日浄上人代に寄進された横浜市鶴見区駒岡に開基上人七十年の念願が叶い福壽山妙信寺を建立する。
 
 
 

―開基上人と妙信寺のはじまり―
当山の開基上人・妙信院日浄尼上人は、三重県の出身。
昭和のはじめ頃に上京され、結婚をして二男二女を授かる。しかし、長男が病気になりその病気平癒を祈念するために最初は、「霊友会」に入信。
それが信仰への第一歩であった。
「霊友会」に入信後は、池上本門寺へ病気平癒のため太鼓をたたき、日参をしたが願い叶わず長男は亡くなってしまう。
その後、亡くなった長男の菩提を弔うために入信していた「霊友会」で身延七面山に登山。その時に「とても声の通る女性がいる。一団体で信仰を進めているのはもったいない」と声をかけられ僧侶になることを薦められ、東京都世田谷区烏山の日蓮宗「玄照寺」の山岡日照上人の下で得度をされた。
その後、色々な経緯がありどうしても日蓮宗を離脱することになる。
日蓮宗離脱後、おひとりで布教活動をしている開基上人のことを耳にされた松井日宏上人が法華宗へとお誘いし、鶴見区下末吉の平屋建ての自宅を改装し「妙信教会」としてお寺をスタートしたのが始まりである。
ご自身の布教の傍ら法華宗の行学会に席をおき、同信の方々と、信者獲得の活動をされた。また、松井日宏上人より「信心だけでこれから活動していくのは大変」と助言をいただき、行学会で同席をしていた川手善明上人(龍顯院日昇上人)が妙信寺に入り、二人で布教活動の裾を広げていった。

―布教活動と本堂建立―
霊友会、日蓮宗を経て法華宗の僧侶になり布教活動をされ、寺号公称をして、平成元年には下末吉の平屋建ての教会から鉄筋コンクリート造りの新本堂(下末吉の旧妙信寺)を建立された開基上人だが、その道は平坦なものではなかった。
開基上人が布教をしていたが、財産として資金が無かったため、現住職の父の晴順上人が、当時の妙信寺筆頭総代の東山和平氏の会社に勤めるようになる。
当時は貧しく、総代の会社であればお寺も見られるし、仕事も手伝えるということで東山工業に入社をする。
その後、東山氏の会社を現住職の父が引き継ぎ、貯えた私財を下末吉の本堂建立と、昨年の駒岡への本堂庫裏移転に私財をそそぐ事になる。

―先祖を護れる寺として―
布教活動をして、信者が増えていく中で「最後は日浄上人のもとで……」という信者の方の声が多く聞かれるようになった。
その開基上人も平成10年7
月15日に御遷化された。
下末吉の本堂も建立して十六年が経ち、未来永劫この妙信寺を続けていくには手狭になってきた。
現住職の善信上人は「今までの妙信寺は檀家というものがなく、ご信者だけでした。ご信者さんというものは、住職個人の人柄などに信仰を求めるものが多く、その代一代でお寺を離れてしまうことが多い。なんとか先祖を護れる寺を創って、永くお寺と御縁をもっていただけるお檀家さんをつくりたい」という発願のもと、昨年お寺を移転、新本堂を建立された。
新しい地でご住職は、「信者から檀信徒にしていきたい。これからも、ご信者獲得の布教活動はするけれども、ご信者はその代で、特にカリスマ性のある人についていく。それだけではなく『依法』という法の部分を重要にしていきたい。」と話された。


―「法」を教えていける道場として―
新しい本堂の御宝前でご住職は「下末吉の妙信寺は、駒岡へ移るための足場として、信者だけという形だったが、その信者を引き継いだなかで今度は、信者だけで終わらない『法』というものを人に教えていける場所=道場にしていければ……」とこれからの妙信寺の寺門興隆・寺檀和合への思いを話された。

―お寺の守護神の由来―
「福壽稲荷」という。当山の「福壽」という山号も、ここからつけられている。
開基上人が出身地にある寺の守護神が上人についてきて「あなたの傍で、一生守護する」と言ったのが「福壽稲荷」である。
元々感応のあった上人が「福壽稲荷」を感得して東京横浜と生活を共存し、布教の一体として福壽稲荷を背負って布教をしていた。
その中で最初は、稲荷一体であったものが法華宗の本門八品のお題目を唱えることにより、法華経行者の守護神として妙信寺に勧請されている。

―「福壽稲荷」の経緯―
中道家(出身地では前田家)は長い間、長男を亡くすという因縁があった。それは、前田家の先祖が当時妻帯を許されなかった村の僧侶と一緒になり子供を身ごもった。村のお寺の掟を破り、村から責めを受けた三人は自害をして、寺も廃寺になってしまった。それ以来の因縁である。開基上人も長男を亡くされている。
 
平成18年6月1日発行 「無上道」掲載 
(取材・無上道編集員 八木明秀)
 
 

布施は字の如く、「布の施し」で僧侶に袈裟等の衣類を供養する行為であり同様に自分自身の身体(からだ)を使い、人のために奉仕をする行為です。
しかし近年仏事を行う上において、施主側の「布施」に対する「金額」の不安をよく耳にします。妙信寺では今まで「布施」に関するものは「お気持ちで」と申してきました。しかし布施はあくまで「お気持ち」と主張する人と布施の額をハッキリ言ってほしい人との両方があった為、今回ホームページの立ち上げと共に妙信寺における「布施額」を明記します。しかしこれは仏教寺院・日蓮門下寺院の相場とは関係ありませんので申し上げます。また「布施額」とは申してもあくまで目安です、もし何らかの事情がありお金に困っている、しかしどうしても心より供養したい人がいる方や葬儀・仏事を行いたいという場合はお申し出ください。お話をお聞きし理由によっては出来る金額でもお受けさせていただきます。
また、お金が無くても自分の身体を使いお寺の本堂やトイレ掃除・草むしり等、をする行為で布施とさせていただきます。お申し出下さい。
 
■追善供養
●葬儀・法事・戒名
葬儀・法事に関しましては、戒名の件や納骨等、人によってさまざまな条件が異なりますので、直接お寺にお問い合わせ下さい。
年回忌法要 3万円 妙信寺本堂追善供養法要 5千円〜1万円
年回忌・法事・開眼・埋葬 5万円
■お盆・彼岸時自宅へのお経
自宅仏壇回向 5千円〜1万円 月命日回向 5千円〜1万円
七七日供養 3千円〜5千円 塔婆供養・6尺塔婆 3千円
4尺・3尺塔婆 2千円 経木塔婆 1千円
朝勤時回向供養 3千円
■遺骨の一時預かり
遺骨預かり時 3万円 後1年間 1万2千円
■水子供養
妙信寺本堂水子供養 1万円 塔婆供養 1千円
報恩閣位牌永代供養 永代供養3万円(位牌代1万円含)
戒名希望 3万円 ※水子位、家水子の場合は費用は掛かりません。
朝勤時回向供養 3千円 報恩閣知恩水子納骨供養 10万円
■祈祷・祈願各種
●各種祈願料
【地鎮祭】【上棟式・竣工・開店式】【土地のお清め供養】【家祈祷・家屋解体祈祷】
【厄除・方除祈祷】【土地清め】【古木等伐採祈祷】【井戸(池)祈祷】
【本尊・仏像・仏壇・仏具・印鑑・墓碑等の開眼】【各種閉眼】【守護神の開眼】【お焚き上げ】
【七五三・十三まいり】【安産祈祷(腹帯・御札・護符・満月式)】【腹帯】【満月式】【虫封じ祈祷】
【 ほうろく灸祈祷】【交通安全祈祷】
妙信寺本堂において祈願の場合 1万円
自宅において祈願の場合 1万円
※地鎮祭・上棟式・開眼供養・守護神の開眼・安産祈願等法要の規模やお札の供養料などで
  費用が異なりますので直接お寺にお問い合わせ下さい。