▲立ち並ぶ無縁塔

当山には数多くの無縁塔が並んでいます。これは当山の第4世池田日光尼上人が、日向見周辺にありました無縁塔をお寺の地所内に集めて建立したものです。

この日向見地区に建てられている無縁塔につきまして、中之条清見寺・長田住職の談によりますと、江戸時代の士農工商の制度があった頃、日向見地区は「姥捨山」のような地域であったということです。

身分の低い人々は身寄りがなくなりますと、日向見定光寺近辺に集まり、温泉で暖を取りながら畑で作った野菜等の一汁一菜の生活をして、この地で終焉の時を迎えたそうです。そういう人たちの供養塔が日向見近辺にある無縁塔ではないかと思われる、と語っておられます。

 

幡連社幢誉量阿映現隆肇大和尚

当山の無縁供養塔の中に「幡連社幢誉量阿映現隆肇大和尚」というお坊さんのお墓が建っています。

このお墓は、平成7年12月に当山に隣接する鶴屋旅館地所の山中より発見されました。鶴屋旅館の方々が当寺にはこんでくださいましたが、この時私(現住職)は千葉の遠寿院で修業に入っていましたので、お墓は発見されたままコケ塗れの状態で雪解けの春まで無縁塔の中に置かれてありました。

▲戒名
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群馬県の山間部でもよい気候になりました6月頃、お墓のコケを落としきれいに掃除をしますと、何やら長い戒名が刻まれていました。これは一般の人の戒名ではないと感じ、お墓の背面を見ますと、清見寺第12世という文字が読みとれました。すぐに電話帳で清見寺を探し出し電話をいたしました。

電話で清見寺住職にこのお墓の話をしますと、「たしかにその幡連社幢誉量阿映現隆肇大和尚という方はわが寺の人間ですが、いろいろと問題がありまして……もし時間がありましたらお寺に来ていただけないでしょうか」というお話しでありました。そこで早速お伺いすることにいたしました。

清見寺は中之条駅のほど近い、日向見温泉より車で20分くらいのところにある立派なお寺でした。お寺の客間に通され、挨拶がすむと住職が一冊の本を出してきました。その本は「清見寺誌(地域と共に歩んで四百年・平成8年5月発行)」というもので、住職は次のように語りました。

「実は、清見寺は今年開創400年という年を迎え、その記念として当山の歴史を本にしました。その歴史を調べていく中で、当山12世の僧侶が問題を起こし、12世の籍を抜かれていること、その最後は日向見に葬られたということがわかりました。その詳しい内容がこの中に書かれておりますので、どうぞご覧ください」

「清見寺誌」には次のように記述されています。

12世幢誉隆肇(清見寺誌より原文)

幢誉は信濃国松代の生まれである。11世澄誉の一番弟子であったが、のち、常陸国(茨城県)那珂郡瓜連の常福寺(関東十八檀林の一)の僧侶となり、その後、安政年間から明治3年まで住寺した。安政年間のころ、11世澄誉が隠居することになったが、当寺後継の慣例は、一番弟子が住職になることに決まっていた。一番弟子は、瓜連の常福寺の住職になっている幢誉であった。

檀家の人々は寺の檀徒総代、中之条町の町田明七と伊能八兵衛(種助)の両人に常陸の常福寺を訪ねてもらい、清見寺に転住してもらいたいと、幢誉にお願いすることになった。

重責を任された両人は、はるばる常福寺へ行って理を尽くして話し合った。幢誉はもちろん寺格の下の清見寺へ帰る意志は毛頭ない。明七と八兵衛は、とうとう六十日間もおり催促して、ついに清見寺へ来てもらうことにした。時に町田明七(一七九六〜一八六九)は六十歳、町第一の実力者であった。

天保十三年、二十五歳の時、江戸伝馬町の牢獄に中之条、原町市出入りの重要参考人として投獄され、蛮社の獄で入牢中の高野長英の牢舎に偶然同室となり、牢名主である長英に大変世話になったことがあった。長英と伊勢町の代官根岸権太夫の文書の中にも、長英は「明七はなかなか妙なる男にて候」とあり、豪放で人を食ったところがあった。何分檀林寺の僧を清見寺に再度呼び戻すことなど人並外れた手腕がなくては太刀打ちはできない。

幢誉もまた異常なまでの強慢な性質であった。しかし両人の努力によって一件落着ということで、常陸の瓜連からの帰り道には「向山御用」の札を立てて和尚は駕籠で、明七、八兵衛もお供として駕籠で、道中荷物、長持等は宿駅を無賃で泊まりを重ねて清見寺へ着いた。

元治二年三月、清見寺の屋根替えのことについては幢誉は心中の虫が納まらなかった。そして次の議定を取り交わした。

為取替議定一札の事

清見寺の萱替のことについて方丈(住職)はじめ世話人の指示に不行届があったので、町の扱人、重兵衛以下四人(林昌寺檀家)が仲に入って謝り、「清見寺のことについては、晋山、退院、普請等は勿論、寺役のことは方丈の意に任せること。葬儀・法事には時刻を守ることなど、寺のことは方丈はじめ世話人檀中の人々の意見を尊重すること」この申し合せの約定には幢誉和尚はじめ、寺世話人各村々の代表当町の扱人一同押印している。

以上のように幢誉和尚の身になってみればその胸中も察するに余りあるものがあるが、いつも威張りちらして話にならない。

明治になって廃仏棄釈の時の流れは全国的な広がりを見せるようになった。檀徒の中にはいつしか離檀して神葬祭に転ずる者が次第に数を増してきた。和尚もついに寺を出て四万、日向見薬師堂に隠棲した。明治五年の中之条町役場文書によると、「清見寺十二世住職、隆徳(伊能覚書には竜澄とあり、幢誉が正しい)明治三年閏十月還俗して帰農した」とある。

大槻文彦の「上毛温泉遊記」によると、「明治十二年九月七日、晴、日向山定光寺という。土人云、何時の頃にかありけん。今の守僧無頼にして什物など売代なすと聞こえ、また堂内も、何時とて掃除せし事もなく、灯明なども絶えてあげずと。堂内の暗さ、きたなさ、いわんようなし」と述べている。(原文のまま)

無理やり住寺させられ、反仏教の明治維新の方策に遭遇し、寺院運営は困難を極めた。また、隠棲はしたものの参詣者もなく、布施や収入もない堂守僧となってしまったことには、同情せざるをえない。

その翌々年の明治十四年十一月二十六日、四万日向見において死去した。墓は宗本寺住職の言によると日向見に葬った。

法名、幡蓮社幢誉量阿映現隆肇大和尚という。