■供養について

トップに戻る
 
 

仏教の大きな特色の一つが、先祖供養です。そこで今の自分自身の生命について考えて見てください。

仏教の教えでは、今私たちが生きているこのいのち(生命)は神が創造したり、私たちが自分で作ったものではありません。このいのち(生命)こそ、私たちにとって、かけがえのない宝物であります。日ごろの生活のなかで、「生きていてよかった」という、生きることの喜びを感じたことが何度となくあったことでしょう。

このいのち(生命)は、親からいただいたいのち(生命)なのです。親はまたその親からと、さかのぼった数多くの親のいのち(生命)を、今自分のいのち(生命)としていることを忘れてはいけません。私たちはいのちに感謝しなければなりません。いのち(生命)を拝まなければなりません。

「我が頭(こうべ)は父母の頭(こうべ)、

我が足は父母の足、

我が十指は父母の十指、

我が口は父母の口なり。

譬えば種子(たね)と菓子(このみ)と身と影の如し。」

(忘持経事)

と日蓮大聖人が示されていますように、私たちの精神と肉体は、すべてご先祖さまから受け継いだものであります。

 

 

「父母の恩」

私たちには二人の親がありますが、親の縁によって自分があること。忘れてませんか、親の恩を?

ここに父母の「恩」について説かれたお経があります。

「父母恩重経」現代語の一説です。

お父さんには子供に幸福を与える心があり、お母さんには子供に不幸を抜き去る心があります。

そのわけは、人間がこの世に生まれてくる訳は、人間が授かった運命を「因」とし、父母を「縁」としています。

もし父が居なかったならば生まれてこなかったでしょうし、母が居なかったならば育たなかったのです。

このように、心は父から、形は母から頂戴するのです。

ですから母が自分の子供を想うことは世間の何ものにも比べることは出来ないのです。

今のいのち(生命)があることはご先祖さまの「おかげ」であることを実感し、感謝の心を捧げるこれが先祖供養です。

 

人間の「死」、これは生を受けし者は必ずまぬがれることの出来ない世界です。

そして大事な人との「別れ」はいつかは訪れます。

「人間いつかは死が訪れる」自分に言い聞かし、頭では理解ができても、いざその現実に直面した時、「別れ」の苦しみを乗り越えることは大変難しいことです。この「死」を受け入れ、乗り越える事に仏教の教えがあります。仏教には生きた世界から亡き世界に「想い」を送る「お経」による追善の供養があります。

日蓮大聖人も若くして子供を失い悲しみに暮れる母親に対し、「妙法蓮華経の世界で亡き子供と再会するよう」教示しています。

「死」の悲しみ・苦しさを乗り越える手段は何といっても「お経」による追善供養です。悲しみ・苦しみの癒えない方、お経による追善供養を通して亡くなった方への想いを伝えてください。

 

塔婆は詳しくは卒塔婆といい、インドの言葉の「ストゥーパ」(仏塔)に漢字を当てたものです。

塔婆供養の始まりは、インドでお釈迦さまのお骨を納めた所に塔(仏塔)を起てて、それを庶民が供養したことにあります。塔婆供養は、法華経の如来神力品第二十一の中に「塔を起てて供養しなさい」とあるように仏教供養の代表的な形の一つです。

その功徳について日蓮大聖人は

「南無妙法蓮華経と書いた塔婆の文字に風が触れると、南無妙法蓮華経の文字は風に乗り、海や山へ種がまかれる様に縁を付けるでしょう。

そのご縁で自然の中の動物や植物さえも救われるのですから、その塔婆を起てて供養しようと志された人は、塔婆に手を触れ、目に見ることで必ず成仏できます。

さらに、その塔婆供養の功徳により、霊山浄土という仏さまの世界におられるご先祖さまも喜ばれ、供養を志された人は寿命が延びるでしょう」

と教えてくださっています。

このように、塔婆をたてて供養することは、私達のご先祖さまの霊を救い、また霊界で迷っている霊をも救うことが出来ることを教えて下さっています。

塔婆は亡き人への「便り」です。

 
供養方法・費用

妙信寺では先祖供養を始め、諸事情により供養したくても供養が出来無いなど、「想い」を捧げたい方の供養を受け付けております。

「死」への悲しみ・「亡き人」への供養を心から願う方、 当山御寶前において「お経」をお上げし供養の志を捧げます。塔婆供養による追善供養も受け付けています。

供養方法・供養費用
本堂において個別に「ご先祖さま」「亡き人」への供養を捧げます。
(法要時間約25分)
供養料 1万円

都合によりお寺に出向けない場合は、電話・ファクス・メール
(お問い合わせフォーム)にて施主名・命日をお知らせ下さい。

お寺の朝のお勤めの中で供養させて頂きます。

供養料 5千円