妙信寺ブログ

11月1日 祈禱会 

遠寿院荒行堂

11月1日 祈禱会の午前中、遠寿院荒行堂の入行会に行って来ました。

写真中央のお上人とは、300日間荒行を共にしました。

今年4回目の入行と言う事でお祝いにお伺いした次第です。

下総中山駅を降り中山法華経寺の参道を歩き法華経寺の山門をくぐると、

晴天の空に遠寿院荒行堂からお経が響いて来ました。

そしてお経に導かれる様に、荒行の入行読誦会を拝見しました。

やはり荒行は良いですね。気持ちが洗われます。行僧の皆様100日間頑張って下さい。

合掌 中道善信

本年も当山副住職は、遠寿院の事務所を務めますので宜しくお願い致します。

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月例祈禱会

午後1時より月例の祈禱会を行いました。

本日は現在10月・11月に行われています日蓮大聖人御会式法要の話をさせて頂きました。

近年よく耳にする言葉が「お会式だから・・・・」

と言う言葉です。近年各寺院共にお会式の参詣者が減って来ているようです。

もう「コロナ禍だから・・・・」と言う言葉は使えなくなりました。

妙信寺の先代住職は常に「お会式は各寺院のお上人の布教の結果が現れる法要」

と常に話していました。この先代の言葉を常に刻みながらこれからも布教活動を

続けていきたいと思います。      中道善信

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10月15日 御会式法要

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10月15日 日蓮聖人第742遠忌 御会式法要を厳修しました。

妙信寺ではお会式法要の際は手作りの桜の花で本堂内は賑やかに荘厳されます。

この桜の花は日蓮聖人が亡くなられた10月13日に季節外れの桜の花が咲いたという故事に因み日蓮門下寺院ではお会式の法要の際には堂内に桜の花をお供えします。

他の寺院では中々目にする事のない、「手作り」の桜の花ですが、このお花を作るのにも幾日もかかります。これらは檀信徒有志の方々に休日にお寺までご足労お手伝い頂き一つずつ思いを込めて作成致しました。皆で思いを込め作成した桜の花で満開のお堂はとてもとても心が暖かくなるのを感じたのは私だけではないはずです。

そんな真心のこもったお堂で有縁寺院様、檀信徒様とともに報恩感謝のお題目を日蓮聖人に捧げられたこと心より嬉しく、有難く感じます。

 

法要前には大聖人の御遺文「報恩抄」の一節、

「極楽百年の修行は、穢土の一日の功に及ばず」

を用いてお話させて頂きました。

どうしても人間は人生の岐路に立つと楽な方を選択してしまいがちですが、

大聖人が、「極楽の修行<穢土の修行」と述べられている様に、「楽<辛」を選択できるよう

大聖人の「身軽法重」の弘教精神を身に案じ、私も精進を致す所存です。

 

年の瀬に向け、慌ただしくなってくる季節ではありますが、くれぐれもご自愛くださいませ。

合掌 善隆 記

 
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10月1日祈願法要

10月1日(日)祈願法要を厳修いたしました。

猛暑から一転、冬のような寒い日になったりと、四季ではなく二季のような異常さですね。異常気象が私達の健康にも大きな影響を与えています。体調管理には十分留意したいものです。

コロナ感染症はまだまだ収まっていない状況の中、インフルエンザの流行が重なり、コロナなのかインフルなのか分からないと言う、気の抜けない日々が続いています。個人個人予防するしかありませんね。マスク着用も任意となりましたので、マスクをする人、しない人まちまちの光景が見られます。自己責任と言うことでしょうか。

さて本日は祈願法要です。法要に入る前に一生成仏抄と言う御遺文を拝読させて頂きました。僭越ながら、少しでも檀信徒の皆さまの理解に役立つようにと、解説もさせて頂きました。

御遺文拝読の後、方便、自我偈、神力偈、咒陀羅、題目等の読経の後、御祈祷会では住職、副住職による木剣加持祈祷があり、お題目太鼓の中、撰経を身体に当てての祈祷が行われました。

法要後お会式に向けた、恒例の手作りによる、お会式桜の蕾作りを檀信徒の皆さまと共に実施いたしました。大勢なのであっという間に、終わりました。大変お疲れ様でした。終わりに住職より15日のお会式法要のあと、ご供養の席をご用意したい旨の話があり、本日の法要は終了いたしました。  合掌  善徹記

「一生成仏抄」

衆生というも仏というも、またかくのごとし。迷う時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるがごとし。只今も一念無明の迷信は磨かざる鏡なり。これを磨かば、必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発して日夜朝暮にまた懈らず磨くべし。いかようにして磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり。

等々日蓮在御判 南無妙法蓮華経

「現代語訳」

衆生といっても仏といっても、同様なのです。迷っている時には衆生と名づけ、悟る時は仏と名づけるのです。たとえば、曇っていて、ものを映さない鏡も、磨けば玉のように見えるようなものです。私達凡夫の無明という根本の迷いに覆われた命は、磨かない鏡のようなものです。これを磨くなら、必ず真実の悟りの知恵の明鏡となるのです。深く信心を奮い起こして、日夜、朝暮に、また怠ることなく自信の命を磨くべきです。ではどのようにして磨けばよいのでしょうか。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつること、これが磨くということなのです。

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