5月20日 先祖供養会を厳修致しました。
去年の御会式ぐらいから法要日となると連日あいにくの天候に悩まされていましたが、
久しぶりに良き天気に恵まれた中で法要を修行できました。
法要前には私が最近ネットで見かけた掲示板での宗教ネタを、
皆様方にお話させて頂きました。
Q,功徳とは何ですか。
同じお経を読み、同じ信仰をし、同じように暮らしていても
その中である人は損をし、ある人は得をする。
ある人は病に倒れ亡くなる、ある人は病見つかるも治る。
そしてある人は事故に遭い重傷を負う、ある人は事故を免れ九死一生を得た。
前者には功徳がなく、後者には功徳があるのですか?
功徳とは一体!?
といった内容の質問を、あるHPの掲示板で見かけました。
お寺と関わりの無い方が思う極普通の意見だと私は感じました。
この質問を御信徒に投げかけ、私なりの想いをお話させて頂きました。
信仰とは私が思うに、人それぞれ様々な信仰があると思います。
10人いれば10色の信仰があって良いんです。
信仰とは何か?という質問に対してペーパーテストで100点の回答はないと思っております。
亡き婆ちゃんの月命日には必ず婆ちゃんの好きだった和菓子をお供えする。
今日試合に勝てます様にと線香をあげ手を合わせる。
法華経一部を読誦する。
これら全て信仰だと思います
ただこれらの行いに対してのそれぞれの結果を「功徳」という言葉に集約してしまうとそれは間違えになってしまうような気がします。
私が思う「功徳」とは、信仰したことによって得られる安心感や安堵感。
そしてその安堵感とともに感じられた様々な「気づき」だと思っております。
難しくいえば「善悪の元となる可能性」こそが私が思う所の「功徳」だと思います。
御信徒さんたちに上手く伝えられたかは分かりませんが、
「信仰」、「功徳」について少しでも考えて頂けたならそれだけで幸いです。
なんせ御信徒さんと言えども私より一回り二回り年上の方々、
つまり私の親、祖父母くらいの方ですからね。
私の様な者の話を聞いてくださるだけで私は感謝感謝なのです(‘ω’)ノ
記 善隆合掌