日別アーカイブ : 2016年4月18日

4月17日 供養法要

4月17日(日) 先祖供養会において拝読・解説をいたしました。

「西山殿御返事(三三蔵祈雨事)」
されば仏になるみちは善知識にはすぎず。わが智慧なににかせん。ただあつきつめたきばかりの智慧だにも候ならば善知識たいせちなり。而るに善知識に値う事が第一のかたき事なり。されば仏は善知識に値う事をば一眼のかめの浮木に入り・梵天よりいとを下て大地のはりのめに入るにたとへ給へり。而るに末代悪世には悪知識は大地微塵よりもをほく善知識は爪上の土よりもすくなし。

 

「現代語訳」
仏に成る道は善知識に勝るものはありません。我が智慧は何の役に立つでしょうか。ただ暑さ寒さを知るばかりの智慧だけでもあるならば、善知識が大切です。しかしながら、善知識に値うことが最も難しいことなのです。それ故、仏は善知識に値うことを、一眼の亀が浮木の穴に入るようなものであり、梵天より糸を下げて大地に置いた針の目に通すようなものであると譬えられているのです。その上、末代悪世には、悪知識は大地微塵よりも多く、善知識は爪の上の土よりも少ないのです。

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4月1日 月例祈祷会

4月1日の月例祈祷会の際、『四条金吾殿御返事』を御拝読、解説致しました。

4月8日(釈尊降歎誕会)花まつりも併せて行いました。

『四条金吾殿御返事』

仏の御心はこの文字に備れり。たとへば種子と苗と草と稲とはかはれども心はたがはず。釈迦仏と法華経の文字とはかはれども、心は一也。然ば法華経の文字を拝見せさせ給は、生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし。

現題語訳

仏の御心はこの法華経の文字に備わっているのである。例えば種子と苗と、草と稲とは形は変わっても、その心に違いはないように、釈尊と法華経の文字とは形の相違はあるけれども、本質は全く同じである。したがって法華経の文字を拝見する時には、生身の釈迦如来にお会いしているのだと思わなければならない。

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